ポストコロナの資本主義とは
私たちは今、通信を基盤インフラとした第四次産業革命の大きな変化の中にいて、足元の日本を見れば、政府はIoT、ビッグデータ、人工知能といったイノベーションを前面に押し出しながら、さらなる経済成長を、規制改革、安全保障などとセットにして国家の成長戦略として掲げている。
近代科学と資本主義という二者は、限りない「拡大・成長」の追求という点において共通しており、その限りで両輪の関係にある。しかし地球資源の有限性や格差拡大といった点を含め、そうした方向の追求が必ずしも人間の幸せや精神的充足をもたらさないことに人々がより強く感じ始めており、現代が人類史の中でもかなり特異な、つまり成長・拡大から成熟・定常化への大きな移行期へさしかかっているのではないか、との見方が指摘されている(広井、2015)。
ポストコロナの社会のあり方を展望するにあたり、こうした広井の指摘は示唆に富むものである。なぜなら、新型コロナウイルスのような新たな疫学的脅威との共存が強いられる社会に身を置くということは、一旦は人との接触や移動の制限を強いられるということに他ならず、従来、あたかも経済活動を支えてきたと考えられていた行動様式の意味が改めて問われることとなり、より一層、資本主義経済の限界や矛盾点が浮き彫りにされることになりうるからである。
広井によると、人類史において成長、拡大と定常化のサイクルを繰り返してきたという。すなわち、第1のサイクルは私たちの祖先である現生人類(ホモ・サピエンス)が約200万年前に地球上に登場して以降の狩猟採集段階であり、第2のサイクルは約1万年前に農耕が始まって以降の拡大・成長期とその成熟であり、第3のサイクルは、主として産業革命以降ここ200~300年前後の拡大・成長期である。
狩猟採集のみでは十分な食糧確保が困難であるような場所が地球上に広がる中で、人類は約1万年前に農耕という、新たなエネルギーの利用形態を始めることになった。これが第1のパラダイムシフトとみられる。
農耕という営みは植物に太陽エネルギーを吸わせて栄養分を作らせ、それを管理・収穫して、自らの栄養分とする営みと言えるだろう。このことにより、構造化された「時間的秩序」の世界を生きることになったのと同時に、農作物としての富の備蓄に由来する格差を生んだ。これが格差の起源であろう。
次のパラダイムシフトは産業革命であった。産業革命の本質は、生物の死骸が数億年という長い時間をかけて地下に蓄積された「化石燃料」を一気に燃焼させてエネルギーを得るという性格にある。このような数億年にわたる備蓄を僅か200~300年ほどで使い果たそうとしているのが現在の人類が置かれている状況である。
産業革命以降、こうしたエネルギー開発による科学技術の発達と相まって、貨幣の流通を基盤とした資本主義経済を発展させてきた。戦後、日本では、敗戦によって失われた精神的対象を会社に見いだし、滅私奉公の精神を仕事の中に体現することとなる。
モノが不足している時代にあっては、 勤労という言葉が示すように労働はそれ自体「善」であり、それは労働が社会全体の生産の拡大と便益の増大に寄与するからであった。つまり労働はそれ自体が 利他的な性格を持ちえたのである。
戦後復興期は、自動車、多様な家電製品、石油化学製品などの耐久消費財等が一気に普及した時期である。言うまでもなく、背景には欠乏による貧困があり、工業化に伴いそこへ多くの労働力が注ぎ込まれることにより、市場は拡大、成長を遂げ人々の需要を満たしていった。
やがて「高度大衆消費社会」が現実のものとなる中で、モノが溢れ、人々の需要が徐々に成熟ないし飽和し、かつてのように消費が際限なく増加を続けるという状況が頭打ちになる。ここで資本主義は工業化から情報化への局面へと移行することになる。
つまり、生活の道具立てが充足されるとともに、人々の関心は物質からデザインやモードに移行する。たとえば、寒さを凌ぐためのコートを持っているだけでは飽き足らず、コートのデザイン性、ブランドなどといった情報に導かれた消費を行うようになる。つまり物質の消費から情報の消費へと移行するのである。
ところで、情報の消費はモノに限らずサービス分野においても同様である。コロナ禍で行動が制限されることをきっかけとして、たとえば、有名レストランでの飲食や、高級ホテルでの宿泊の意味を改めて問うことは、ひとつの情報の消費のあり方に再評価を与えるものであろう。
結局、あるブランドやデザインといった情報的価値はある人にとっては意味をなすが別の人にとっては無意味なものであるのと同時に、モノ不足による物質の消費と違い、情報の消費は主観的な消費行動であるがゆえに際限なく消費が拡大していくということは見込めない。
一方で、技術革新により生産性が高まると、少人数の労働で多くの生産を生み得るため、余剰の労働力が生じるようになる。かつての時代であれば、そうして生じた余剰の労働力は別の新たな生産部門に従事し、そこで次々と新たな需要が生じ、全体として社会がより豊かになっていくというサイクルが働いていたのが、モノ不足が解消された現在では際限なく新たな需要が生まれるという状況ではなくなり、結果として、生産性が上がれば上がるほど失業が増えるという自己矛盾的な事態が生まれている。
要するに、生産性が上がった社会においては、少人数の労働で多くの生産が上げられることと引き換えに、おのずと多数の人が失業することになるということである。これはある意味で過剰による貧困 とも呼ぶべき状況であろう。
かつての時代は 欠乏による貧困、 つまり生産の不足あるいは生活に必要な物資の不足が単純に貧困を意味したわけだが、現在ではむしろ、 過剰→失業→貧困 という新たな事態が生じているということになる。
このように、資本主義の一元的方向が様々な矛盾とともに限界に達し、「ポスト資本主義」の社会構想が求められている現況において、新型コロナウイルス感染症のような疫学的脅威と共存していく新たな生活様式を見出していく視点は、閉塞的な状況に陥った資本主義経済の現況を打開して、次のパラダイムへシフトする原動力を与えるきっかけとなりうる。
すなわち、高度成長期を中心に「拡大・成長」の時代においては、工業化の拠点は都市部に置かれ、その結果、労働者の生活拠点としての大都市への人口の集中を招いた。そこでは大量の資源を使う「資源集約的」な活動が生産性が高いとされてきたが、 資源の有限性が顕在化し、かつ生産過剰が基調となって失業が慢性化してくる。とりわけコロナ禍の現況では、人口の過密な都市部での生活スタイルが危ぶまれるとともに、労働時間の短縮を強いられ、人々はこれまでの労働形態やその意義が改めて問われることに直面せざるを得ない。
ここで、労働時間の短縮によって生じた余剰な時間を利用して、いかに人間らしく、精神的に充足された、豊かなライフスタイルを構築できるか、つまり「時間の消費」と呼べるような、コミュニティや自然等に対する志向をもった新たな価値観に裏付けられたライフスタイルに発想が転換されれば、福祉、環境、まちづくり、文化等に関する領域が大きく発展していく可能性が考えられる。
これらの領域は、地域のコミュニティの個別性に基盤をおく性格のものであるが、そこには、地域独自の環境、文化、あるいは高齢化に根ざした医療、福祉や教育分野に至るまで地域特有の課題が山積されており、こうした地方の現場では、生産性の向上を志向する一元的な「資源集約的」なやり方は機能せず、むしろ多くの人手を必要とする「労働集約的」なやり方での個別的対応が必要不可欠になっている。
一方で、人口の過密な都市部において余剰となった労働力の地方への分散を促すには、それぞれの地域における流入人口を確保できるだけの住環境の整備をはじめとする、まちづくりの基盤である地方の金融サービス、交通サービスの整備など、受け入れ体制の整備に関わる数々の問題の克服も不可欠であり、それがその地域における将来的な移住につながるであろう。
「経済再生なくして財政健全化なし」政府はこの基本方針を堅持し、増税、規制改革、労働施策の改正など、様々な施策を講じて、2025年度のプライマリーバランス黒字化を目指しているわけであるが、基本的にはアベノミクスが志向するのは金融政策主導の成長戦略ということに変わりはなく、その先にあるのは、甚大な格差や「力」への依存とともに限りない資源消費と拡大・成長を追求し続けるアメリカ社会に象徴される姿であろう。
一方で、ここでみてきたように、新たな疫学的脅威との共存が強いられるポストコロナの社会は、これまでの一元的方向性を持った資本主義経済のあり方に様々な疑問を投げかけ、矛盾や限界をより一層鮮明にあぶり出すことになるであろう。さらに、「成長・拡大から成熟・定常化への移行期」から「ポスト資本主義」の社会構想を展望するに、生きがいや精神的充足といった、余った時間の使い方に着目した、これまでとは別の意味での豊かさ、新しい価値観に裏打ちされた生活様式という方向性に一定の道筋をつける契機を与えることになるだろう。
参考文献
広井良典 (2015) 「ポスト資本主義ー科学・人間・社会の未来」岩波新書